エスあるところに・・・

昨日の後半部分に<“それ”に拘り続けていく気力>などと、それ、に “” をつけましたが、そこらへんは別にこれといった他意はなく、単に、人それぞれの気になるポイント、程度の意味で書いたつもりでした。でも、よく考えてみると、というか、思い付きですが、“それ”に拘り続けた結果、中島はうるさい日本の私として様々なシステムと闘い、人生を半分降りる、などといいつつ、そういう本を書いて社会的なあるポジションに収まってしまっているし、永井もまた、<社会的人間であるための気力のようなものが保てなくなってきた>と書いてはいるが、そのようなものではない、本当に言いたいことを自分の哲学として出したところ、学生や編集や一般人といった「読者」との間、に特別気力を振り絞らなくてもやっていける社会的人間としての地位にも収まっていると言ったっていいだろう。

気力を振り絞らないとやってられないような社会的人間としての自分。

そうせずにはいられないようなことをして存在している社会的人間としての自分。

それら“自分”のところを“自我”といってみると、中島や永井って、まさにフロイトの言う『エス(それ)あるところに自我あらしめよ』の格好の例になっているような気がしないでもないと思った。

こんなことを書いていると、気になることにばっかこだわっても食っていけない、という超自我の声が聞こえてきます。また、気になること、が何も無いと、気になって、気になることを探しに世界中歩き回るのも、食える食えないは関係なく、ある社会的存在としての“自分”を発見した、ともいえようか。たとえそれが首を切られて終わるという悲惨なことになったとしても。