新宮一成「ラカンの精神分析」

第五章 他者になるということ  4 鏡像段階論 から

たぶんこれまで2,3回は通しで読んでいたし、なにか疑問がわいたたんびに引っ張り出してちょこちょこ拾い読みしていたこの本の中の「鏡像段階論」の説明を読んでみた。

人間は生まれてきてからしばらくの間、身体の各部分を有機的にまとめ上げる神経系の機能が未発達である。たとえば電気的興奮が神経細胞の軸索を伝わってゆくとき、その神経伝導の高速化を可能にするのは、軸索を鞘のようにとりまく、ミエリンという淡白物質から成る構造であるが、これは主として生後四ヶ月位の時間をかけて形成され、その後もゆるやかに形成は続く。

いかにも科学的な体裁のはじまりで<順序を追って再論>しだした新宮だけども、要するに、<神経系の未成熟>からくる<姿勢や運動の調整不全のため、内面的な統一像は形成されない>という昨日引用した内田と似たようなことを書いている。そこにこんな記述が続く。

このような不協和な自己固有覚をもった幼児が、鏡の前に立ったときのことを考えてみよう。立つことを覚えたばかりかあるいはまだ伝い歩きの六ヶ月から十八ヶ月の間の幼児は、まだこの不協和に強くおびやかされているだろう。ところが、彼が鏡の中に彼の像を見てとったとき、視覚は姿勢覚に比して早くから発達しているため、内面の不統一にもかかわらず、視覚像によって、自己の統一性が実現されてしまう。自己の統一性は、内面から支えられるより先に‘見え’によって先取りされることになる。

内田の場合、幼児が鏡に対面した時起こる契機を<「私」であることを直感するという転機>と書き、新宮は<自己の統一性が実現>と書く。自己の統一性。これだとなんとなく、ああ、そういうことなんじゃないかなあ、と想像できるところがある。

長じて「五感」と呼ばれることになる感覚機関からの情報や身体感覚のアマルガムとしての混沌が、(より発達した)視覚に沿ってまとまり始める。まとまりの内、と、外、という区分け。自、と、他。

それにしても、<自己の統一性が実現>する視覚像、というのはなにも鏡の像じゃなくてもいいはずだ。内田は「寝な構」の中で<ところでもし鏡を持たない社会集団があったら、そこにおいて鏡像段階はどうなるのでしょう?どなたかご存知の方がいたら教えて下さい>などとこの部分の説明をネグっている。一冊をラカン精神分析について書いている新宮はその点ちょっとだけ親切で、貧乏な家に育って鏡を見たことがない子どもも<他者が直接鏡の役割を果たす>としている。

あんまりよくわからない気がしないでもないが、とにかく、‘見え’が先行してそこにある混沌にまとまりをつけていく、と考えるとわりと他のことにもつながりを持たせていけそうではある。

昨日の内田の引用の中に<統一的な視覚像として、一挙に「私」を把握することになります。>とあるのも、一挙になにものかを把握するのは視覚という機能の特徴という気がするのだけど、それはともかく、ばらんばらんに錯乱する外界と身体からの混乱が‘見え’と結びついて静まるとしたらそこに把握されるのは、「私」というより、「私」以前の‘それ(es)’としか言い様がないような気がする。

‘それ’こそが原初にあったものなのに、‘見え’がそれだと勘違いしてしまう。というか勘違いによってしか収まらない。

決して‘それ’には到達できないけれど、‘見え’を‘それ’と勘違いして勘違いして勘違いしまくっているうちに「象徴」が表われ、「空想」を様々な形の防衛に用いる。

かなり先走りの独りよがり感はあるが、自分的には、なんか、かなり見通しがよくなってきたぞ。