内田樹「寝ながら学べる構造主義」①

第六章「四銃士」活躍す その四--ラカンと分析的対話

内田の「死と身体」と「他者と死者〜ラカンによるレヴィナス」という装丁もカッコ良い待望の新刊が出て、予習のような意味合いとこれまでの流れがあったので、手軽に読めるこのへんをも一度読んでみた。

ところで、コンパクトに手軽に読めるように書いてある、というのは、もともとの書き手がそこで持ち出さなければならなくなった概念の発生事情というかそこらへん見えなくなっているせいか、かえって難しくなってしまってるんじゃないかと思うことがままある。臨床体験にしろ人生経験からにしろ、あれはなんなのか?、となってしまったそもそもの具体的出来事が見えてこないとなかなか身にこたえてこない。どうしてあんなことがおきるのか。あーでもないこーでもない。そのへんをごちゃごちゃ書いているうちに、問題になった、あれはなんなのか?、の「あれ」の感じをなんとなくでもつかめて、ようやっと、ああなるほど、「転移」な、とか、「抑圧」ね、とか納得できてくんじゃなかろうか。

それは、まあ、内田の責ということではないし、またそんなことを書きたくなったのは、どうもラカンの「鏡像段階」というのが、いまひとつ腹におさまらないところがあるからだ。ラカンというと「対象a」であるとか、「寸断された身体」とかいう言葉があって、そこらへんは対象関係論や統合失調症について書かれたものを読んでいるうちに、なんとなく、あれのことかな、と思えるところができたんだけど、この「鏡像段階」というのが、どうして「鏡像」でないといけないのか、簡単に飲み込めない。内田はその説明のはじめにこんな風に書いている。

人間の幼児は、ほかの動物の子どもと比べると、きわだって未成熟な状態で生まれてきます。ですから生後六ヶ月では、まだ自力で動き回ることもできず、栄養補給も他者に依存せざるを得ないという無能力の状態にあります。幼児は自分の身体の中にさまざまな「運動のざわめき」を完治してはいるものの、それらはまだ統一に至ることなく、原始的な混沌のうちにあります。この統一を欠いた身体感覚は、幼児に、おのれの根源的な無能感、自分をとりまく世界との「原初的不調和」の不快感を刻み付けます。そして、この無能感と不快感は幼児の心の奥底に「寸断された身体」という太古的な心象を残します。この心象は成熟を果たしたあとも、妄想や幻覚や悪夢を通じて、繰り返し再帰することになります。

ここまではついていける。問題はこのあと。

さて、この「原初的不調和」に苦しむ幼児が、ある日、鏡を見ているうちに、そこに映り込んでいる像が「私」であることを直感するという転機が訪れます。そのとき、それまで、不統一でばらばらな単なる感覚のざわめきとしてしか存在しなかった子どもが、統一的な視覚像として、一挙に「私」を把握することになります。

これがなんだかさっぱり腑に落ちない。鏡を見て狂喜する幼児というのがいたそうだけど、それがどうして「私」を把握することになると言えるのか。そもそも「直感」したり「把握」するのは、「私」なんじゃないのか。そのへんちっとも納得できないのに、

たしかに、幼児は鏡像という自分の外にある視覚像にわれとわが身を「投げ入れる」という仕方で「私」の統一像を手に入れるわけですが、鏡に映ったイメージは、何といっても、「私そのもの」ではありません。一メートル先の鏡の中から私を見返している「鏡像の私」は、一メートル先の床の上にあってこちらを向いている「ぬいぐるみ」と、「私そのものではない」という点では変わりがないからです。

たしかに、と書かれても困る。たしかか?。「私そのもの」って何だ?。