前日、前々日あたりからの続き

この2,3日、幼児の空想を取り上げてそれにあれこれ書いてきたけれど、そもそも精神分析において「空想」が問題になってきたのは成人の心理治療に見られた「転移」の説明に必要だったからだろう。ユングフロイトとはじめて会った時、「転移」を精神分析のαでありωであると言ったらしい。

精神分析における「転移」というのは、おおざっぱに言うと、ある人が目の前にいる人物に幼少期の重要人物(たいていは親)の像をかぶせて的外れの感情をぶつけたりすること、とでもなるか。たとえば親に見捨てられた経験を持つ人が、上司とか教師とか多少なりとも親しくなった目上の人に対して、過剰に脅えたり怒りを表したりするとき、その人は、親との関係を「転移」させている、というわけだ。

この時、脅えや怒りの対象となっているのは「現実」の目上の人のあれやこれやの言動ではなくて、その目上の人に親の像を見てしまう「(無意識的)空想」に対してで、そこに怒りをぶつけたり脅えたりしてしまう。しかし本人にとってその目上の人は、「現実」にそうせずにはいられない相手なのである。

さて、幼児は幼児で恐怖の対象(パカパカした靴=食いつく口)に対し、泣き叫んだり手足をばたつかせたりしてそれに対処しようとする。それらはほんとうに怖いものなのか、などという反省なしの即時行動となる。これは上司に親を見る大人においても同じであろう。ただし、言語的存在としての大人相手なら、その上司はほんとうにそんな脅えるほどの者なの?であるとかそんなに怒るほど悪い人?であるとか、反省を迫ることができる。それが効く治療法である時もあり、「解釈」とはそのことだ。

即時行動を必要とする生々しい「現実」としての恐怖の対象が現れる世界。

それらは単なる「パカパカした靴」であり「ただの中間管理職のおじさん」だと名付けることによって無害化した言葉の世界。

最大数の言葉によっても無害化されなかった恐怖の対象が潜んでいる世界。

これらをそれぞれ「想像界」「象徴界」「現実界」とラカンは言ったのではなかろうか。

(だいぶ考えの中間をすっとばしたような感じがあるので今日の書き込み勝手に加筆訂正する公算大)