港千尋「記憶」

先週土曜日のこと、所要で埼京線北戸田駅に行かねばならなくなった。戸田橋というのがあるくらいなので川を越えたらすぐだろう、くらいに思っていたのだが思いのほか多くの駅を通過した。そんな感想をもってしまったように北戸田駅なんてはじめて利用する駅だと思っていた。

私は仕事の関係で首都圏のJR私鉄各線の駅の中の、かなりの数の駅を利用したことがあり、おそらく首都圏在住の、というか、日本の中で、というか、地球人類のなかで、「一度でも使ったことがある首都圏の駅の数比べコンテスト」、でも行えば上位30番手くらいまでには入るんじゃないかと見ている程、あちこちの駅で降りたことがあり、そんな私でも北戸田というのはまったく覚えがなかった。

ところがその日、北戸田駅で降りてみると駅前の通りや建物の具合になんとなく覚えがあった。覚えがあった、というより、その場所ではっきりと面子まではわからないが数人の同業者と待ち合わせをして仕事に向かったぞ、という状況全体の雰囲気のようなものを思い出した。それは、絶対にここに来たことがあった、というような確信ではなくて、デ・ジャブ的なあやふやなものであった。なので、ここではない他の似たような駅だったかもしれない、と思いつつも、なんとかその思い出した状況のほうの具体的細部をつかもうと思って集中したのだが、どうもはっきりしない。とりあえず目的地に行かなきゃならないので歩き出してみると、また、あ!・・・その面子と帰りにロッテリアのシェイクが100円になってるからと買って歩きながら飲んだ、この道じゃなかったか?、という、これも文字に起こすとあまりにはっきりとしてしまうのだけれど、とにかく、その100円シェイクを買ってった、というぼんやりした状況に一瞬すっぽり包まれた。とでも言ったらいい感じになった。

結局、その近所にはロッテリアはなかったようだし、でもな〜んか個々の建物は見覚えあるような気もするがやっぱりこの駅ではなかったという気もするし、と、今でもほんとのところははっきりしない。

この話は、昨日書いた、幼児にとっての現実、と、それに対して「幼児は空想を見ている」と言う大人(分析家)の意見に対する、なんとはなしに感じる違和感の説明のために使おうと考えていたんだけど、結局使えず、使わなかったがためにか、やけに気になって、半年ほど前に読み、ものすごい勉強になった港のこの本を引っ張り出して読んでみたところ、それが昨日書いたものの流れにあまりにぴったりはまり込んで妙に興奮したのでここであらためて書いてみた次第。

パカパカの靴を見て恐怖の反応を起こす幼児にとって、それはまごうことなき現実であって「心的現実」でも「空想」でもない。ただもう、世界はそのような恐怖の相貌でもって幼児に向かってくるのだから、それに必死の抵抗を試みるだけだ。

さて、私は北戸田駅につくとスイカではなく今だにイオ・カードを使っているのでそれを自動改札に差し込み駅備え付けの街区表示板を探し街へと脚を踏み込む。はっ!。ここって・・・・確か・・・。その「はっ!」の一瞬。それは、単にある建物や道の具合に見覚えがあった、というのではない、過去のある状況にまるごと放り込まれたかのような感じであった。なにか仕事前の気鬱な感じ、顔見知りではあるがそれほど親しくはないその日の面子との微妙なコミュニケーションの感じ。そう書くとあまりにはっきりしてしまって事態の正確な把握とはならない、かすかな状況感。ところが、それなりに「発達」してしまった私は、その状況をすぐさま「過去」の出来事を思い出した、と捉える。

ここからは完全に想像になるのだが、パカパカになった靴に恐怖を示す幼児にとっては、わたしが北戸田駅に降り立って、「はっ!」となった瞬間、その瞬間だけがある、その瞬間のような状態の持続だけがある、そのような在り方だけがある、んじゃあないか。それを「空想」だとか「過去」だとか「記憶」だとか改めて捉えなおしはしない生々しい「現実」。発達した大人から見るとあまりに曖昧だしいいかげんだし的外れな「現実」。

北戸田での私の体験には、微かにではあるけれど、仕事前、と、仕事後、の気鬱なところ、と、すっきりした感じと、感情的な色合いがあって、ただ、その色合いがあまりに薄いがために全体の状況をひどく茫漠としたものにしてしまっているような気がする。ここで、何か、生命を脅かすような出来事に出くわしていたなら、きっともっとはっきりと記憶が蘇ったはずだ。それはたぶん「フラッシュバック」と呼ばれる現象と言っていいだろう。

フラッシュバック的世界の持続。恐怖の全状況。また、逆に、快感の全状況。その時、世界は、全体が恐怖(あるいは快感)に彩られ、まだ、「私が恐怖を感じている」という反省的世界像は顔を現さない。