スーザン・アイザックス「空想の性質と機能」

松木邦裕編「対象関係論の基礎〜クライニアン・クラシックス」収録

ここ4,5日の書き込みの流れでやっぱりどうしても読んでおかなかればいけないと精神分析(対象関係論学派)の必須の基礎論文のこれを読んでみた。
どの世界の古典もそうなんだろうけれども、これだけ精緻に書かれてしまうと、後、それについて何を書けばいいのか分からなくなるところがある。たぶんそこを乗り越えたりさらなる独自の見解を付け加えていくのは、臨床の現場を数多くこなすことなんだろうなとは思うのだけれど、自分なりに感じたことを書き残すことでなにがしか血肉の一部にする努力をしておきたい。

24日の本ページで触れた『「対人の場」に対して働く生得的な身体的メカニズム』であるとか、23日の『子育ての仕事に応じるようなシステム』というのは要するに「本能」と言ってしまえばよく、ただ、私は「本能」について書きたかったわけではなくて、そこから「空想」やら「幻想」やら「イメージ」といった語への架橋を目指そうとしていて、そこをなかなか上手く書くことができなかった。その部分、この論文ではフロイトを引き合いに出し、次のように書いている。

フロイトは「・・・・あらゆる意識的なものには、無意識的な準備段階がある・・・」と述べている。総ての精神過程は無意識から始まり、ある特定の状況においてだけ意識化されるのである。それらは本能欲求から直接に発生したり、本能衝動に作用する外的刺激への反応として生じる。「それ(エス)は身体的な過程とどこかで直接接しており、そこから本能欲求を引き継ぐとともに、身体過程に精神的表現を与えると思われる」。・・・・
現在の研究者たちの見解では、この本能の「精神的表現」が無意識的空想である。空想は(まず第一に)本能の精神的な活動の帰結であり、本能の精神表象物なのである。衝動や本能的衝迫や反応おいて、無意識的空想として体験されないものは何一つない。

空想は本能の精神的な活動の帰結。なるほど。「精神的な活動」、か。実にコンパクト。しかし、「精神的」という語も曖昧といえば曖昧なんだが、でもそうとしか言いようがないんだろう。
「本能」という語は、様々な生物の科学的な観察を得て創られた概念だろうし、だから人間の「本能」についても科学的な実験・観察を経たうえでの理論構成がなされているのだろうけれども、そこに「精神的」でもなんでもいい、なんらかの語を持ち込んで「空想」という語と接木するのには、なにか、ひどく、ねじれのようなものを感じてしまうのだ。それは単に個人的な感じなんだろうか。
私の身体に本能が埋め込まれているのは確かだろう。ただ「本能」についての科学的探究というのはどこかよその人の営みで実感ではなく教えられるもの、といった感がある。ところが、「空想」というのは、もちろんアイザックスやフロイトやクラインらの研究のようによその人の営みによる探求から教えられていることは確かなのだけれど、ああなるほどそういうことか、という、納得が、自分の問題として思い当たるふしとしてあり、その思い当たるふしというのは原理的に「自分」にしかありえないのではないか。
この論文にも取り上げられているが、クラインを筆頭に対象関係論学派は、幼児の分析から養分を得てきており、たとえば本論分にも言葉を話せない時期の幼児の空想として次のような例が挙げられている。

発達が遅れている一歳八ヶ月の女児が母親の靴を見た時のことだ。その靴は靴底の縫い目がほどけていて、パカパカと開いていた。するとその幼児はぞっとして恐ろしそうに叫んだ。その後の一週間ほどは、母親がどんな靴を履いていても、それを見ると叫んで遠くに逃げていた。また、母親が鮮やかな色の室内履きを履いているときだけは、我慢できることもあった。それから数ヶ月の間は、母親は不快にさせるその靴を履かないでいた。すると幼児は徐々にその恐怖を忘れるようになり、母親は色々な種類の靴を履いてもいいようになった。しかしかながら二歳十一ヶ月(十五ヵ月後)の時に、幼児は母親に脅えた声で急に語りかけた、『ママの破れた靴はどこにあるの』。母親は子どもがまた突如叫びだすのではないかと恐れて、その靴はどこかへ捨てちゃった、と急いで答えた。すると幼児は次のように言った、『あの靴はあたしをパックリ食べちゃったかもしれないよ』

アイザックスはこの例について、パカパカになっている靴を、恐ろしい口として見た幼児の空想の「証拠」(正確には『証拠たり得るものがある』と書いてあるのだが)と書いているのだけれど、この「証拠」は、指紋のついたナイフが殺人の「証拠」になるような「証拠」とはまた種類の違う「証拠」じゃなかろうか。幼児が反応をおこした物、「パカパカになった靴」という物、は、単に大人の言い方としてそうなのであって、「恐ろしい口」というのもまた同じである。現実に起きたことは、母親がいて女児がいていろんな履物があってそのなかに件のパカパカしたものがあって・・・・・違う。パカパカになっている靴、という言い方は大人の見方なのであって、幼児にしてみれば、それは単に恐怖を呼び起こすそれでしかなく現実そのものだ。それを空想というのが、大人の見方なので、「ほんとう」は恐ろしいものなのにそう思いたくない大人の小細工にすぎない、と言えば言えるのではないか。
う〜ん、どうもややこしい。
ただ、ここらへんに、フロイト精神分析が胡散臭く語られてしまいがちな落とし穴があるような気がするんだけどうまく書けない。