川嵜克哲「夢の読み方・夢の文法」

はじめにあるあるネタを。この本、2000年に出たときすぐ買ってすぐに読み、夢について書かれた本の中でもかなり面白い本だと感心して、その後も何度か拾い読みしつついろいろ考えの参考にしていたのだが、この四月、やや精神的なバランスを崩した身内に役立ちそうだからと思い、送ってやった。新刊本屋で買いなおせばいいやと気楽に考えてのことだったが品切れになっていたもんだからあせってブッコフ筆頭にあちこちの古本屋を探しまくるはめになった。なかなか見つからず今月になってようやっと荻窪の南口のほうの古本屋で書き込みもあるやや程度の悪いものを新刊で780円のところ470円とあまり安くないものを見つけて買ってまあそれでも一安心と一息ついたその一週間ほど後、しょっちゅう行ってこの本があるか毎度毎度確かめていた大塚のブックオフで300円で売っていて、複数の入荷があったのか100円のコーナーにも少々小口の部分がやけてはいたけど荻窪で買ったやつより程度のいいのが売ってあってたいへんがっくりきましたとさ。

今日も引用から。
P161

朝、けっこう込んでいる電車に私は乗っていた。ラッシュ時の車内は人の口数は少ない。みんな、黙って車体の振動に合わせて揺れている。突然、少々カン高いおばさんの声が車中に響いた。
「拾いなさい」
もともと人の声はほとんど聞こえなかったはずなのに、おばさんの声によって明らかに車内がシーンとなったのが不思議といえば不思議だ。
「ね、拾いなさい」
おばさんは繰り返しいっている。どうも、乗り合わせた高校生くらいの男の子がゴミをぽい捨てしたらしい。おばさんはそのゴミを拾えといっているのだ。
「ね、ね、拾いなさい」
諭すような口調なのだが、妙に声がキンキンしていて威圧的なトーンがそこに混じる。しかも、高校生が動かないので、おばさんのことばにイライラした様子が滲みだしてきた。
「あら、睨んだってだめよ。あなたが悪いんでしょ。ね、拾いなさい。自分で捨てたんだから。自分で拾うのが当たり前でしょ、ね、拾いなさい」
そりゃ、高校生が悪いんだろうけど、こんな感じで言われたらプライドもあるだろうし、動けんわなぁ。私はそんなことを思っている。
「どこの学校?ついていって先生にいうわよ。ね、拾いなさい」
お、とうとう脅迫しはじめたぞ。この時点で、私はけっこう不快な感じを抱いていた。いちゃつくカップルも愉快ではないけど、こういうのもなんだか不快だ。車中の雰囲気を察するに、不快な印象をもったのは私だけではないようだ。当事者の高校生はもちろん、車中の人たちもそのおばさんをちょっと冷たい目でそれとなくみている。あまりふれたくないものでもみるように。
そう、捨てたゴミを拾えと訴えているおばさんは、いつのまにか高校生や車中の人たちから見捨てられたゴミになってしまっていた。
高校生が捨てたゴミを拾いなさいと要求していたおばさんは、捨てられたゴミのようになってしまった。不思議なことだが、人と人とが関係すると案外このようなことは、じつはよく生じてくる。

そのすぐ後に挙げられた例。

たとえば、彼氏がひどい人なのでもう別れたいと女ともだちからあなたに電話がかかってくる。もう絶対に別れるとか関係を切るとか、彼女は息巻いている。そんなに決めてるんなら別に相談することもないだろうと思うのだが、当の本人は電話口でぐちぐちいいつづける。
彼との関係を「切る」とかいっているが、なかなかそうは簡単にはいかないようだ。気持ちもわかるが、電話も長くなると、いつまでねちねちねちねちし話してるんだよ、とあなたもだんだん腹が立ってくる。とはいえ、「じゃあ、さっさと別れなよ」というわけにもいかず、悶々としたまま、あなたは受話器を握っている。
この例では、彼氏との関係を「切りたい」という女性の話を聞いていると、うんざりしてきて彼女との電話を「切り」たくなってくるのだが、そうはいっても友だちだしと思うと、「切るに切れない」状態になっている。このどっちつかずのあなたの状態は、その女友だちの彼氏に対する状態とまったく同じである。

さらにひつこく「甘えの構造」の著者土井健郎の話。

その人(土井)が勤めていた大学としてはじめて盲人の新入生を受け入れることになったときのことだが、大学側は委員会を設けて、その新入生に不自由を感じずに大学生活を送ってもらうにはどのようにしたらよいかを真剣に考えたらしい。
しかし、はじめての経験でもあるし、大学側の誰もが盲人の新入生のような経験をしたことがないので、相手の身になって熱心に考えれば考えるほど、その人のためにほんとうにしたらよいことはなんなのかわからなくなってきたということだ。ここでは、目の見えない人が置かれている状況を真剣に考えると、こちらも相手の置かれている状況が「見えなく」なっている。

あるいは、私が20日に引用した春日武彦の話、またフロイトの有名な「fort-Da」の話(お母さんが出かけているときに子供が糸巻きだかのおもちゃをベットの下に隠し「いないいない」といい、それを引っ張り出して「いた」といって遊んでいる)でもいい。
川嵜はこの本の中で「夢」あるいは「無意識」は「関係」をその文法の核としている、と書く。意識は「おばさん--高校生」や「高校生--ゴミ」あるは「盲人--状況」「大学側--状況」「いなくなるもの--離されるもの」といった具合に関係の両端にある具体的内容をとらえるため、そこに登場する当人としては「--」にあたる関係の中に取り込まれていることに気付かない。気付かない、というか、子供の例に見られる通り、人間は「--」にあたる部分に意識抜きの何らかの機能で応じている、ということだ。サリヴァンの言葉でいえば「対人の場」に対し、生得的な身体的メカニズムが働く。無意識のまま働く。意識はそこに生まれる。
なにかヤブの中に入ってわけわからなくなってきた。