中井久夫「サリヴァンの精神分裂病論」

精神科医がものを書くとき・Ⅱ』収録
P140

彼は、精神医学は何よりもまず「対人関係の学」であるという。実在するものは、物理学の場と等価な「場」(field)としての「対人の場」(interpersonal situation)であり、個々人はその一部である。晩年に至っては、対人関係の数だけ人格があるとさえ極限している。対人関係の場を離れて個人(individual)というものがあるというのは妄想であると彼は繰り返し述べている。
 したがって、精神医学の方法は「関与的観察」(participant observation)しかないと彼はいうが、ここで注記しておきたいのは、participationとは「即融」という訳があるように、「関与」という用語よりも、おそらくかなり強い意味であり、したがって観察者は場の一部と化していて、そういうものとしての限られた価値の観察しか不可能であるが、しかし対人関係について多少とも科学的な陳述は他に不可能であるというのである。

「対人関係の場を離れて個人というものがあるというのは妄想である」というのはウィニコットの「一人の赤ん坊などというものはいない」という言葉を思い出させる。
たとえば私は今「一人」でパソコンの前に座りパコパコとキーを打ち込んでいるわけだが、そんなときであっても「対人関係の場」の影響に骨ぐるみになっているということ。これまでさまざまな対人関係を結んできたなかでも、もっとも影響を及ぼしているのはおそらく「家族」(それも母親)だろう。お乳を与えられだっこされほめらたり怒られたりしながら徐々にある一定の振る舞い方をしはじめる。それを人格を持つ、と言おうか。さて、親(あるいはその役割を果たす人)のそのような仕事「子育て」によって様々な能力を持っていくのが人間だとすれば、その仕事に応じるようなシステムが元々子供のほうにもなければならないだろう。子育ての仕事を受け入れるシステム。おっぱいがあれば吸い付いつき、叩かれれば泣き、だっこされてリラックスし、お母さんの顔を見て笑う。おっぱい、殴る手、抱く腕、顔、といった具体的なものに対する反応を呼び起こすシステム。さて、そのシステムは具体的なものに出会う前から備わってしまっている(気質的障害はここでは考えない)のだが、おっぱいや腕や顔といった具体的なものが与えられなかったときそのシステムはどうなっているのだろう。
ここにファンタジーや妄想や、あるいはユングの元型がはさまってくるんだろうけど今日はここまで。