イアン・ワトスン(訳山形浩生)『エンベディング』

のあとがき部分のみについて。

先週、この国書刊行会の同じシリーズの『ケルベロス第五の書』をちょっとしか読まずに図書館に返してしまっていて、この『エンベディング』も新着図書として発見しすかさず借りてはみたものの結局読まず終いで返すことになりそうなので、とりあえず訳者あとがきだけでも読んで、先々のために読む気になる木でも植え付けておこうと思い目を通したのたが、これが前々から一度は触れておきたかった件について取り上げられてい、それについて考え出したら、また、どうにも他のことに手がつかない状態になってしまったので少し祓っておくとこにします。

『エンベディング』の中では、言語学がモチーフとして使用されているらしいのだけれど、そこでの言語理解というのが『通俗化されたサピア=ウォーフ説に大きく影響されている』と山形はいう。その「サピア=ウォーフ説」とやらはどんなことを言っていたかと言うと

これはつまり、現実とことばというものが、何か一対一で対応している、という発想だ。この考え方が正しければ、ことばを見ることでその人々にとっての「現実」がわかることになる。この説を唱える人は、たとえばエスキモーのある部族が雪に関する語彙を六十種類くらい持っているとのべ、われわれにとっては平板な雪でしかないものが、かれらにとっては実に繊細で多様な現実となっているのだ、と指摘する。これは彼らが雪の豊富な生活をしているからだ。日本は魚を食べる文化が発達しているため、トロだ赤身だとマグロの肉を表現することばが豊富だ。日本人がマグロに見ている繊細で多様な世界を、欧米人はまったく認識できておらず、認識しようもないというわけだ。色を表現することばが多い言語は、豊かな色彩文化を持つという主張も多い。日本では虹は七色だというけれど、一部の言語は三色だし、別の言語では十二色だ。多ければ多いほど豊かな色彩文化、というわけだ。また一部のインディアンは、今日と明日を表すことばが同じだ。ここから、この部族が時間の直線的な経過という概念がなく、今日と明日が区別されない円環的な時間を持つ世界の中に住んでいるのだ、といった議論が、このサピア=ウォーフ説に基づいて大まじめに行われてきた。

さて、そのような考え方は、今どうなっているのかというと、分がよくないらしい。

まず、ここで主張されている多くの「証拠」がウソだというのがわかってきた。エスキモーは雪をあらわすことばをそんなに持っていない。一方で極彩色のジャングルにすむある部族は、きわめて高度な色彩文化を持つにもかかわらず、色に関する語彙があまりないという。まわりの色があまりに豊富なので、どこにいても「この色!」と指せばすむから、らしい。ましてことばがないから現実認識ができない?そんな馬鹿な。トロと赤身がことばでは同じでも、味覚の鋭い西洋人は喰えば(あるいは見たり図解したりすれば)当然そんなものは認識できる。さらにまともに考えて、昨日と今日の区別がないなんてことがあり得ると思う?

俗流サピア=ウォーフ説も本家本元のサピア=ウォーフ説もよく知らないのだけれど、その説ってほんとに『ことばがないから現実認識ができない』なんてこと言ってたんだろうか。そうだとしたら確かに変てこではある。けれども、ここにある山形のからかい気味の要約の中だけでも、そこには一片の真実が含まれているのではあるまいか。たとえばマグロの肉をさす「トロ」と「赤身」の議論。

日本人がマグロに見ている繊細で多様な世界を、欧米人はまったく認識できておらず、認識しようもないというわけだ。

『認識しようもない』というのは確かに言えそうにない。また『まったく認識できて』いないかと言えば、そんなこともなく、指差して見せれば、マグロの肉の「赤いところ」と「白っぽいところ」を認識するだろう。んが、んがですよ、指さして「これ」と「これ」のように言う前、そのような単なるマグロ肉を、ドテリ、と見せられたとき、彼らは「赤いところ」と「白っぽいところ」と、分けて「認識」するだろうか。それらは彼らにとってやっぱり単に「マグロの肉」でしかないんじゃないか。西洋人はマグロの「トロ」と「赤身」の違いを「まったく認識できない」とまでは言えないが「認識できていない」「認識してない」くらいは言ってもいいんじゃないか。

「認識」って、「認識」する前、があるはずでしょう。虫の音を愛でる習慣に接したことのない人間が「スズムシ」と「マツムシ」の鳴き声を「認識」してるとは思えない。「違いはわかる」とも言い難いところがある。誰かそこに注意を向けてあげる他者がいなければ、たいていの場合「違い」さえ聞き取りはしないはずだ。ただ「うるさい音」くらいにしか「認識」しない。

引用した冒頭部分にこんなことが書いてあった。

これはつまり、現実とことばというものが、何か一対一で対応している、という発想だ。この考え方が正しければ、ことばを見ることでその人々にとっての「現実」がわかることになる

なにも日本語の「トロ」や「赤身」を持ち出さなくてもいい。ドテリ、と投げ出されたマグロの肉を見て、「マグロの肉だ」というだけの西洋人、と、「赤いところ」と「白っぽいところ」について言及している西洋人、の「現実」はその部分についてあきらかに違いをなしているだろう。それはつまり、『ことばを見ることでその人々にとっての「現実」がわかること』、と言えるんじゃないか。

しかしまあ山形はそんな違いは「現実」の違いなどとは認めないのかもしれない。(俗流?)サピア=ウォーフ批判をしている最後の部分にこんなことが書いてある。

ちなみにこの考え方は、多くの文化人と称する文化人連中にはとても評判がよかった。なぜかというと、文化人というのは往々にして、ことばを操ることで飯を食っているからだ。自分の商売道具がこんなにえらいと言ってもらえれば、みんな当然嬉しいわな。そして多くの評論家は自分が必要以上にことばに執着する一種の変態なのだと言うことを理解できず、だらしなくそうしたナルシズムに同調しがちだ。こういう方たちは「『夕涼み』や『おにぎり』ということばのもたらす感覚は他の言語ではありえない」などと言う。でもこれは、ことばに変なこだわりを持っているからそんなふうに感じられるだけだ。ぼくは夕涼みという行為にはそれなりに愛着もあるけれど、暑い日に夕方の風に吹かれること、と英語やドイツ語やゼマホア語で言い換えたところで、得られる感動はほとんど同じだ。それを一言で言えるということばの経済性が大事な面もある。が・・・それは限られているのだ。また、これが偏狭な文化ナショナリズムと実に親和性が高い発想だと言うことも指摘しておこう。「美しい日本語」とか口走る連中は、みんなこの手の俗流サピア=ウォーフ主義者だ。

日本語で「夕涼み」と書いてその行為に愛着があるとまで連想しておいたすぐその後に、「暑い日の夕方に風に吹かれること」という英語やドイツ語やゼマホア語で得られる感動が同じだ、などというのはかなり卑怯な書きっぷり(だって、その外国語とやらは「夕涼み」を翻訳したものだ、イコールだ、という文脈の上にすでに乗っちゃってるでしょ)だと思えるのだがまあいいとしよう。

例えば外国に出張にでもいった日本人が

「enjoying the cool of the evening」

とでも言われたときに、「夕涼み」という言葉が出たときに連想しがちな、風鈴の音だとか浴衣の団扇を持ったちょっと色っぽいおねーさんだとか長椅子の真ん中に将棋盤をおいて対戦しているねじり鉢巻したおっさん、みたいなものを思い浮かべるだろうか。それとも、そんな連想が出たり出なかったするのは感覚的な誤差の範囲で「ほとんど同じ」と言ってよく、「現実」の「世界」にはなんの影響も与えず、そんなことにこだわるのは変、一種の変態だとでも言うのだろうか。

確かに、「夕涼み」や「おにぎり」という語のもたらす感覚が他の言語ではあり得ない、と言うのは私も変だと思う。それはむしろこう言ったほうがいい。

『夕涼み』や『おにぎり』という語のもたらす感覚は、他の語ではあり得ない。
『enjoying the cool of the evening』や『rice ball』でも無理。

山形は『夕涼み』も『enjoying the cool of the evening』も「得られる感動はほとんど同じ」なのだそうだ。ということは、ぴったり同じ、ということではないんだろう。私が山形の文章に感じた違和はここに発していたようだ。

私は、同じ『夕涼み』という語でさえも、出てきた文脈によって感覚が変ってきてしまうと思うし、肝心なのは、その変ってきてしまうほうだと思っている。だから、『夕涼み』も『enjoying the cool of the evening』も「得られる感動はほとんど同じ」などと言ってことばへの変態的なこだわりを捨てる気にはならないのであった。

最後に以前もhpで引用したことのある小林秀雄の「本居宣長」からのことばで終えます。

・・・言葉の使い方とは、心の働かせ方に他ならず、言葉の微妙な使い方にうかつでいる者は、人の心ばえというものについて、そもそも無智でいる者なのだ。(新潮文庫版「本居宣長」下巻P107)