松木邦裕「分析臨床での発見」

 副題に「転移、解釈、罪悪感」とあって、以前読んだ同じ松木の「対象関係論を学ぶ」というクライン派精神分析の入門書より、より入門書らしい。などと感じるのは、それぞれの概念の説明にごく簡略な骨格のみとはいえ一つ一つ臨床素材があげられているからか。臨床の場に携わるわけではない素人には、その素材をもとにわが身の経験と引き比べつつコニュミケーションの場で起きていることを精神分析的な用語で理解していくことができるんだろう。この後にもう一回「対象関係論を学ぶ」を読めばまた違った理解の仕方ができるはず。

 印象に残ったのはビオンという対象関係論学派の中心人物が語ったという言葉。

「面接室の中には、分析家とアナライザンドと、その二人のやりとりを見ているもうひとりのアナライザンド自身(自己self)という三人の人物がそこにいる」

 松木はこれを受けて、そもそも分析空間には四人がいるように思える、と書く。四人とは体験している分析家と見ている分析家、体験しているアナライザンドと見ているアナライザンド。
 これを読んで連想したのが、ユング派の臨床について書かれたものの中にも分析家と患者の二者関係ではなく、分析家のアニマ、アニムスと患者のアニマ、アニムスの四者の関係を見なければならない、とあったような記憶で、それがどこで書かれていたか思い出せない。
 これらは、体験してはいるが見てはいない経験、というものがある、ということを言っている。見ていない(認識していない)が体験はしてしまっていて、その体験に対する身体の反応にとまどってしまう見る私(どうしてそんなことをしてしまったのかわからない)。
 何故見れないのか。どのように見ることができるようにするのか。見るとはどういうことなのか。
 心理療法の要諦にも関わってくるこの辺の問題をユングの「元型」概念と絡めてつっこんでいきたい。