竹内敏晴「癒える力」(晶文社)

看護婦(現看護師)を対象とした、雑誌「看護実践の科学」1997年1月号から12月号、および1998年9月号に連載した文章をまとめた本。

P12

わたしは四十台の半ばになってやっと、まあ人並みに声が出、話せるようになった。その時からわたしは、声が相手にふれると、相手のからだが動き、ことばが生まれてこっちへやって来る。その有様を刻一刻体験するよろこびで生きて来た(『ことばが劈(ひら)かれるとき』ちくま文庫参照)。人と人とがことばを交わせるということはなんとすばらしいことだろう。

だが十年ばかりたった頃、わたしは目が覚めるように気づき始めた。人は、他の人と、ことばによってふれ合おうなどとはしていないのだ、ということを。人は自分を守るために、人と距離を置くために、ことばで柵を作り煙幕を張り、生活の便利のための計算をやりとりし、感じたことを見せないためにしゃべる。ことばはウソを吐く、いやウソを吐くためにこそあるらしい、ということを。
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わたしに限らず、ことばの不自由なものは、からだの内に動くものを、なんとかことばにしようとあがく。やっと辿りつくことばは、時にとてつもない、他人には意味不明の語句だったりする。発したことばが通じない、と気づいた時の狼狽、苦しさ、自己への鞭打ち。もう一ぺん、ことばの探索、他人に分かるようなことばを。そしておずおずと発してみたことばが、相手に受け入れられ、相手の表情が、こちらへ向けて身構えているからだ全体が、ふっと変わり始めた時の喜び。これがことばの不自由なものにとっての「ことば」だ。それは存在そのものの表現であり、からだ全体での呼びかけだ。ただ、相手にじかにふれることを目指すだけだ。

P17

まこと----真言----とは、人間関係の場においては、人と人とが全人格を挙げて「じか」にふれていることにほかならない。
病むということは、ウソ----虚構----であることばによって構築された礼儀や生活の実務やらの慣習の世界から、「じか」の世界へと落ちこぼれてゆくことだと言っていい。じかな痛み、苦しみ、悲しみ、がかれのからだに溢れかえり、それを耐え、わずかな呻きを、じかに他人に手渡そうとするだけが精一杯のことになる。かれはいわば、ことばが今生まれ出ようとする地点、またたちまち死ぬ危うさの地点にいる。
ことばを発して、それに答えてくれる人があること、それを受け取るということは、相手に受け入れられるにせよ拒まれるにせよ、人と人との一つの「出会い」である。まこととまことのぶつかり合いである。かれはそれを待ち望む。熱い出会いを。
だが一般の生活者にとっては、ことばのやりとりは、一瞬の後には情報の断片として記憶に残るだけのことだ。その人のからだ----存在に、跡もとどめぬ、過ぎゆく風のようなものだ。生活の実務への配慮がすべてを拭い去る。

竹内著作はこれ以外にも何冊か目を通したが、この本は「病」んだ人を相手にすることが仕事の看護師を対象とした連載という切実な問題だったためか、竹内がそうであった「落ちこぼれた」あるいは「病んだ」世界、と、「普通」と言われる世界とのコントラストが、ひときわ際立った著作になっているように感じられた。
仕事でも合コンでも飲み会でもなんでもいい、話題が途切れたとき、そこに気まずさを感じた、という経験を持ったことががない人というのはまれだろう。それくらい、話題・会話、のない、プレーンな状態での対面というものに、「健常」と言われる人は弱い。ここには一考、どころか、二考、三考する価値がある。
言葉を奪われた二人(あるいは三人、あるい四人・・・)が、散り散りになるのでもなくある一定の空間におかれたとき、そこに残るコミュニケーションの手段は、見つめあったり睨んだり訴えかけたりする視線か、あるいは、触れ合い、という、いずれにしろ、感情の絡んだ生々しい関係をとらざるを得なくなる(中井久夫のある著作では、急性の精神病的な病に陥った人は独特の匂いを発し、私に近寄るな、というようなメッセージ送っているのでないかと思える、みたいなことを書いていた。ちょっと曖昧)。そもそも、言葉もなく成り立つコミュニケーションとは、母(あるいは単に養育者)の子に対する思いやり、だとか、恋人同士の睦み合い、だとか、仇どうしの憎しみ合い、といった生々しい形しか思い浮かばない。しかし、立派な社会人たるもの、電車のなかでいちゃついたり、むやみに喧嘩したりといった眉をひそめさせる行為は、慎むものだ、というのが通り相場となっている。一昔前二昔前ならけっこう見られたという公共の場で赤ん坊におっぱいを上げているお母さんがいなくなったというのも、それは生々しいもの、と見なされるようになったからだろう。
竹内の著作の面白さとは、そういった生々しいものでしか人との関係をとれない世界、から、ことば、という別の世界への飛翔、越境、が垣間見られるところなのではないだろうか。
私が精神分析に興味を持つのは、精神分析が、まさに、そのような生々しい感情の嵐に、「解釈」ということばのフィルターをかける、竹内言うところの「まこと----真言」の表われる場所、だと思っているからだ。そのような場所を希求せずにはいられないのには、いくぶんか、「おちこぼれ」た「病んだ」世界にいるという意識があるからなのかもしれない。まあ、適当なことを言ってわいわい騒ぐことも楽しめる程度には「ことば」の住人ではあるのだが。